昭和51年10月17日 朝の御理解
かつらぎ教会
御理解第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
私は、碁将棋といったようなことを全然知りません。だから、訳は分かりませんけれども、今日、御神前に出らせて頂いたら、碁石の黒をたくさん頂きました、黒の碁石を。どういうことであろうかと思わせて頂きましたら、黒の碁石が、その黒が例えば百あるならばやはり白の碁石も百なからなければならない。そういう意味のことを頂いて、今日この御理解第十八節を頂いてみてですね、「この方がおかげの受けはじめ。皆もその通りにおかげが受けられる」ということは、皆も生神になれるということなのです。
私は、最近の合楽の一つの傾向といったようなものを思うて見るにつけ、または、自分の信心というか、合楽の信心というものを思うにつけて、皆がその生神へ向かって進んでおられるという感じがするです。
それに意識してかどうか分からないけれども、私は意識しなければダメだと思う。自分は生神へ向かって進んでいるんだと。そして、昨日の御大祭後のお説教の中にも申しましたように、自分の心の中にある喜び、言うなら、有難いとか勿体ない、恐れ多いと、それに、「おめでとうございます」というような心の状態。湿っぽいもんじゃない。いわゆる賀正の賀である。そういうような心の状態が、だんだん信心をさせて頂いて開けて来る。
けれどもそれは、開けては消え、開けては来消えしておるようですけれども、その繰り返しをしておるうちに、最近頂きます御理解のようにです、その繰り返し繰り返し、有難いと思うたり、有難くないと思うたり、有難いと思うたり、有難くないと思うたり、それが繰り返されているうちに、生神への道というものはついてくるんだと。
そして、最近心行一本と合楽で言われておる、その心行そのものが、その和らぎ賀ぶ心というかね、有難いとか勿体ないという心を消さないように、養護して行く、心行とは、その和らぎ賀ぶ心をいよいよ育てて行くということなんだ心行とは。というようなふうに、最近頂いてまいりましたらですね、その、消えたりついたり消えたついたり、言うなら、有難いと思うたり有難くないと思うたり、という繰り返ししておるうちが、私は、白と黒との碁石が揃うて行きよる時だと思うですね。
それがだんだんたまってまいりまして、そして、いよいよもう決定的なというか、はあこの心をいよいよ育てて行くということが生神になることなんだと。この心をいよいよ養護し、またそれを育てて行くという働きが心行なのだと。そこで、お互いが、心行に専念させてもらうということ。
私は昨日、本当に有難いと思うたことは、御直会の時に、秋永先生ところの奥さんがやって来てから、えらい改まってお届けを致しますのに、「親先生、もう長い長い念願で、朝参りのおかげを頂きたい。朝参りのおかげを頂きたいと願いながら、出来たり出来なかったり、明日から、どんなことがあっても夫婦で朝参りをさせて頂きます」と涙ポロポロ流ししてからお届けするんです。昨日お届け、御直会の時に。
私は、この人の場合、いつも思うことは、この人は口ばっかりというふうにいつも思うんです。もう本当に思ってるらしいんです。いろんなことを発願する。それをお届けする。その時には確かに、実際そう思っている。それを私は信じます。ところができない。そこに人間の弱さというか、または業のようなものも感じます。
だから、その繰り返しを言うておるうちにです、そのことをお届けしておりましたら、涙がポロポロと落ちてくるほどしに、一生懸命やっぱ思っておる。だけれども、なら今日も参って来ていないでしょう。けれどもね、出来ないけれども、昨日お届けをしたことは事実なんです。嘘じゃないです。
私はいつも、それこそ、真を表に現わしてと言うが、いつもそれが表に現れてるです。にもかかわらず出来ないのですという人間の悲しさがある訳ですけれどもね。そこを、なら繰り返し繰り返しです、へこたれずに、「もう私はお届けしたっちゃだめ、もう私は出来んから」と言ったらおしまいです。
そこんところを、繰り返し繰り返しおかげを頂いて行くうちにです、私は、白と黒との碁石が足ろうて行くんだな。それで、まずはその黒い石が先だということなんです。黒い石ということは、黒ということは修行と。石ということは心ということですよね。「意志が強い」とこう申しましょう。だから修行。まあ難儀なことを苦労と言いましょう。だから、それをまあ合楽では、黒を修行と頂くわけです。修行の石が先だと。修行なしにだから生神様には絶対になれないということです。
皆さんが、二十年、三十年と信心を続けておられるが、そういう様々な黒石碁石がだんだん足ろうて、バランスが取れて来る時にです、初めて、はあこれは生神の心の状態だというようなものがハッキリしてくるということになるのではないでしょうか。
私は昨日、もう一つうれしかったことがある。それは、高橋さんのことを、三人の人が同じようなことを言うんです。「もう、今度の御本部参拝で大変おかげを頂きました」と。「私は、高橋さんというのは冷たい人と思いよったら、とっても温かい人ですよ」と言う訳なんです。
「おう、そげんですか」ち私は。「いいやあ最近な変られました」私は、そしてから本当に思いました。それこそ、「艱難汝を珠にす」という言葉があるがです、確かに苦労ということは素晴らしいことです。どんなに冷たい人でも、温かくせずにはおかんという働きがあるです。そういうと、いかにも冷たい人のようにあるけれどもね。いいじゃないですか、冷たい人が温かくなって行くんですから。どんなに角のある人でもです、その角が取れて行くんですから。
そこで、私は、その、今日、黒の碁石を頂いてからです、高橋さんたちの場合なんか、その黒の石がたくさんたまって行きよるということであります。だから、例えば、黒の碁石が百なら百たまった時に、百の白の碁石を神様が与えて下さるです。
自分な出来んとさじを投げてはなりません。やっぱりそれを、言うならば、まあ、消えたりついたり、出来たり出来なかったりといったようなことでありましても、それを繰り返して行くということが尊いんだということです。
そして、何十年間、私が言い続けてきておる、「成り行きを大事に尊ばせてもらう」ということが、だんだん身に着いて来ておる。すべての事柄の中に、御の字をつけて合掌して受けるんだということを、出来んなりにも稽古して来ておる。その一つの決定的な表現であります、最近、寛大の「寛」という字、起きてくるすべてのことが、一切が神様の働きと見ると確信することの出来れる稽古をお互い何十年して来ておる訳です。
成り行きを大事にしながら、出来ないこともあったり、出来たりも、一切のことに御の字がつけられないこともあったり、つけられたり、そうして行くうちに、神様の間違いなさがだんだん分かって来て、いよいよ、神の働きと見るというすべてのことをです、そこには、不平もなからなければ、不足もない。いわゆる、宣言文にあります、「自然と人間とが調和する」心の世界が開けて来るということであります。
いよいよ心が広く、寛大の寛、寛大になる。大海のような心がいつの間にか育ってきておる。そこに、鯨の住むようなおかげ、本当に、そういうおかげに触れてみてです、本当は、しみじみ尊い有難いものを感じるのです。
昨日、ご信者さん方のお直会がえらい遅くなりました。何べんも私は出て来ましたけれども、まあだ準備が出来ておるふうじゃない。それが、準備が出来とったらしいですけども、先生方がゆっくりされたと、夕方までおられた。
最後の先生方が、特に私は有難いと思うたことは、田主丸教会の先生が最後までおつき合いというか、残っておれたと。こっちはお酒も召し上がらんです。それに、強い人たちばっかりとつき合っておられるわけです。
合楽教会がここに出来ます時に、一番最後まで反対をされたのは田主丸教会でした。「判をつかん」と言われる、何べん行っても。その先生が最近は、「合楽合楽」と、昨日は何回も繰り返し言われたことは、「ここへ来ると、親戚に来たごたる気持ちがしてゆっくりなる」ちゅうわけですばい。本当に温かい心に包み込んでいくということは素晴らしいですね。
もちろん、毎月秋永先生が、月の二十日の日には、あちらの信徒が全部集まります。そして、合楽の話を聞くというわけです。もうこれは毎月信徒会長が行っております。ですから、なるほどその親身なものが、今度ご普請が、ご普請というか増築がきれいに出来たそうですが、それも、秋永先生が、あげなふうで大体がちっとばっかお節介ですからね。秋永先生がヒントを与えて、その通りのものが出来上がって、大変良くなったということです。
私とどうということじゃないですけれどもね。そういう雰囲気がだんだん合楽に出来てきた。いわゆる分からなかった人が分かって来るようになってきた。私は、生神の心というのはそうだと思うですね。生神の心の中には、悪人でも善人にならなければおれないという働きを持つことだと思うです。
昨日、先生方も皆、私のお説教を聞いておられたそうです。ある先生なんか、御広前の角の方で一生懸命に熱心に頂いておられた、その先生が言われるのに、「はあ、ああいう頂き方をすれば間違いないんだな」と言うて繰り返し、その秋永先生に話されたというのです。
昨日本当に、そうですね、日本一の御大祭、そんな感じでしたね。感じが。今まだかつて感じなかった、そういうものを私は本当に感じました。御大祭だけはですよ。先生が日本一という意味じゃないです。
ただその中に、惜しむらくは、私の玉串がいけなかっただけでした。どうしたことだったでしょうか。とにかく、一番正面に、言わば、飾るようにお供えをするのけれども、それがこんなになってますからね。
それを私は取り上げてです、はあ、やっぱりお説教の材料じゃったということなんです。ここの先生が、あんなに滴れてござるとは思われない。けれども、お説教の材料に神様がああしなさったんだなあ。そして、あれをああいうふうに頂くということは、もう問題が問題でなくなってくる生き方、合楽の信心はこれだと、もう繰り返し思いましたと言うて、秋永先生に話されたそうです。
今度のこと誰が作ったか。玉串とは、卑しくも私のあれは心なんだぞと。それに、ああいう玉串を誰が作ったかと、例え責めてもいいようなことなんですけれども、それを私の心だと頂く時に、問題はなくなったという話をしたでしょう。それがもう、えらい、その先生方にも響いたという。それが先生、あれが素直な時には、言おうと思うたっちゃ言おうごとなかっても、お神酒が入ってくると、やっぱり自分の心を赤裸々に言うもんですよ。昨夜も先生方はそれをしきりに言うておられましたと言うて、昨日、秋永先生が私に話しました。
また、合楽の生き方は、これを身につけなければ、合楽の信心を頂いておると言えませんもんね。そういうこともです、出来たり出来なかったり、光がついたり消えたりしていくうちにです、だんだんと、言うならば、黒の碁石、白の碁石が足ろうて、ある一つの定まった数が出来た時に初めて、まあ生神とはいかんにしても、やはり、やっぱ、生きとる人間が神の位を頂くのですから、やっぱり生神でしょうね。
そういうおかげの頂けれる、私は、みやすう頂けれる、信心の段階が合楽に開けてきたということであります。植物とか、小動物に対するところの自然との調和ではなくて、人間と自然との調和を生みなしていく生き方を、合楽では、何十年間、続けて神習させて頂いて来たということであります。
天地の道理に基づく生き方、しかも様々な道理を覚えて来たがです、成り行きを尊ぶという生き方、大事にするという生き方、一切に御の字をつけるという生き方。それを神の働きと見るという生き方が、いよいよ確信されるということは、天地の大道理だというふうに昨日聞いて頂いた。
その大道理の中に、たくさんの道理は入ってくるのだ。自然の生命を重んじる。神様の心を心とする生き方。神様の心を心とする尊び方。そこに、自然と人間が調和する心の世界が開けてくる。その心の世界に、限りないおかげが約束されるということになるのです。
黒の碁石と白の碁石が足ろうた時、だから、その苦労なしに、生神への道はあり得ないということであります。だから、その苦労そのものが、尊いもの、有難いものとして押し頂けれるところまで信心を進めなければいけないということであります。それが出来たり出来なかったりして行くうちに、だんだんおかげを頂いて、いよいよそういう有難いという心を消してはならんというのが心行である。
いよいよ、その心を守って行くだけではなくて、それを育てていく働きが心行である。いよいよ心行の究明、いよいよ心行を心行たらしめる、本当なものにして行くという修行に、合楽の場合は、もうここに絞って、信心の稽古をさせて頂いたら良いということになります。
だから、やはり、意識するしないは別として、なら出来て来たとこう申しましたが、私どもはやはり意識しなければなりません。この頃、合楽の先生が少し神様づいてござるというわけなんです。本当に神様づいてるです。それは私が意識し出したんです。
だから、皆さんもです、やはり、その「皆もその通りにおかげが受けられる」と仰せられるのですから、その生神を目指しておるという意識を持たなければダメです。そこから、養護する力も、またそれを育てる力も、いよいよ強なって行くということになります。どうぞ。